バーバラの午睡

主婦の気晴らしお楽しみ。例えばメイドカフェとか。チョコミントとか。

冨安由真展「漂泊する幻影」に行ってきた

<!注意!>
冨安由真さんの展覧会の感想を書きました。がっつりネタバレです。行ってない人は読まないで行く方が幸せなので読まないでください。(自分の備忘録と、行った人に「ああそういう解釈したのねこの人はフーン」と読み流してもらう為に書いています。)

それと私のスマホのカメラ(シャッター音の出ないカメラアプリ)で撮った写真はとてもクオリティが低いので参考までに見てください。

【2021年1月】

出掛けるのにも色々と気兼ねをする昨今。
そんな中、冨安由真さんの個展が開催される。
コロナ渦を受けて延期になっていてやっとの開催。そして会期がとても短い。

会期初日がなんとお仕事休みの日だったので、これも運命・・・と思って初日に行く事に。
会場は「元町・中華街」という駅にある、神奈川芸術劇場

会場に着くと、入り口にアンケートのような用紙があって、名前と電話番号と、日時を書いて提出する。時節柄ですね。

受付のお姉さんに、「展示室の中は暗いので、目が慣れるまで少し待ってください」と言われる。なるほどそういう感じか。
会場入り口に掲示された挨拶文を寄せた人の名前が「神奈川芸術劇場 芸術監督 白井晃」となっていて、おお!あの遊機械全自動シアターの!と旧知に会ったような気持ちになる。
(展示会場内は撮影OKだったので、この序文も一応カメラに収めておいたのだが、これは家に帰ってから読み返すと「うんうんそうだよね分かる分かるよ・・・」となったので撮っておいて良かった。)

そして足を進めると、厚みのある防音扉に「この扉を引いて中にお入りください」と掲示がある。
そのフォントの感じ、文字の大きさとか、そこからもう何かが予感されてワックワクであることよ。

そして、扉をぐいと開けると、もう一つ、何か物語をはらむような扉があり、金色のドアノブに手を掛ける。
その先には、昭和の古いホテルのような廊下がどこまでも続いている・・・。
と思ったら奥が鏡張りなのね。
天井から光が照らす、物寂しい、色味の乏しい殺風景な廊下。

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進むと、「引 pull」という四角いプラスチックのプレート(昭和の事務所のドアには概ねこれが貼ってあったなぁ)が付いたドアがあり、中に入る。

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足を踏み入れた場所は、本当に、真っ暗だった。
何これ目が慣れるとかそういう事ではなくないか???
と思ったその時、広い空間(この時点ではその場所がどのくらいの広さかは全く分からない、何しろ暗いので)の左奥にある大きなスクリーンに、映像が流れ始めた。
廃墟のような、これはホテルだろうか?誰もいない、荒れた建物内の映像が流れ続ける。
気付くと、傍らでラジオのノイズが聞こえる。目を向けると、そこに薄暗く照らされたラジオがあって「ピー・・・ザザザ・・・」という音が鳴っている。

映像はしばらく流れて途切れる。
そして、会場内の一隅がじわっと明るくなる。そこには今回の展示物が置かれている。
照明と映像と音はある一定の間隔で変化する。その変化していく空間を体感する・・・という趣向であるらしい。

しばらくいたら、場内の様子が分かってきた。
かなり広い、体育館のような空間。
片側は大きなスクリーン、片側は鏡張りになっている。

そして、各所にいくつかの場所に別れて配置された「物」がある。
・テーブル+椅子の組み合わせが3組。傷んでぼろぼろ。
・鍵盤が全て外れたアップライトピアノと椅子。時計やら人形やらが隙間なく並んだ「昭和の実家のピアノ」。埃にまみれている。
・ホテルのロビーであったような空間を再現した、ソファやテーブルが置かれた一角。廃墟を再現したような荒れ方。
・時々ノイズを鳴らすラジオ。
それぞれの配置物には、鳥や動物の剥製が一緒に置かれている。

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どれもこれも埃っぽくて、リアルといえばこれ以上ない位リアルな、「廃墟がそのまま現れたような状態」がそこにある。
各配置物の一つに、照明が当たり、真っ暗な空間にその一隅が浮かび上がる。
しばらく照らされた後、すう・・・っと照明が消え、また別の一隅に光が当たる。
時々、大きなスクリーンに廃墟の映像が流れる。また、テーブル下に置かれた小さいブラウン管のモニタに、同じような廃墟の映像が流れたり、ラジオからノイズが鳴っては止まったりする。

都度照らされる場内をあちこち巡っていると、シュー・・・という音が鳴り、ピアノの上からスモークが流れてきた。
一気に高まる不穏な雰囲気。そこに照明が当たる。
スモークはしばらく流れ続け、その間も配置された物に次々と照明が当たる。
その度に、それぞれの空間が又違った印象をもって現れる。

そのようにして、刻々と変化する「その場」を、ぐるぐると彷徨う鑑賞者。

この会場自体が、本来は劇場であるそうで、それを活かした見せ方を意識して、今回の展示は作られたそうだ。
確かに、配置物は舞台装置のようで、照明で場面を切り替えるというのもいかにも舞台らしい手法である。
時間と共に状況が転換していくという所にも、演劇的な要素が強く感じられる。

しかしそこに役者はいない。鑑賞者(そして会場の係員の人)だけがいる。
しかし、何しろ場内が暗いので、くっきり相手が見える訳でもない。曖昧な、誰かいるという気配だけが会場のそこかしこにある、そんな状況。

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各展示物は廃墟の再現ぶりが見事で、どれもこれも、「正直触れるかっていうとちょっと無理」というような、埃やカビや劣化の感じられる物ばかりである。
しかし、それらは絶妙な照明が造りあげる光そして影によって、汚れや傷みを超越した、侵しがたい尊厳のような何かを備えた一つの場面として、我々の眼前に立ち上がっていた。

光の状態は、タイミングによって月光のようだったり、昼の明るさのようだったり、夕暮れのようだったりする。それにより、経過する時間が暗示されているようでもあった。
そして、漂う煙や、ラジオからの音、映像が状況に更にドラマ性を与えている。

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この場所で時間を過ごすうち、「誰かの(朧気で、本人にも定かではないような)薄い記憶」を、直接見ているような心持ちになった。
この場所が、寂れて荒れ果てた状態になる前に、ここで何かがあったかも知れないし、この後に何かがあったかも知れない。
しかし残っているのは、あくまでその「場所」の記憶のみで、「そこであった(かもしれない)何か」については、気配がかろうじてあるのみ。
感情の付加されていない、事物の存在のみ認識した記憶のレイヤー。
その場所に、ダイレクトにアクセスするツアーのようだった。

40分程度滞在して、映像と照明の変化のパターンが一回りしたなと思ったので、その部屋を出ることにする。
出るべき扉はさり気なく照らされており、自然にそこに誘われるようになっているのもさすがだと思う。

そしてドアを開けると、そこはまた殺風景な廊下である。
チカチカと蛍光灯が切れそうな照明。「パッ・・・パッ・・・」と蛍光灯が付いては消える音がしている。
そして廊下に放置された車椅子。
ドアの横に配置された、昔はどこにも良く見た、傘立てのような細長い灰皿。
どれもこれも、また改めて不安を立ち上らせる。
廊下の向こうが、ここも鏡張りになっている。
遠く続く薄暗い廊下の先に写る、自分の姿もなんだか不安げである。

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そして、廊下にあるドアを開ける。
次の部屋も又暗いんだけど、先程とは趣向が違う。
壁に絵が掛かっている。見ると、その絵画は先程の部屋で再現されていた廃墟の様子を描いた油絵が沢山。
複数枚ある絵に、スポットライトが当たる。1枚ずつだったり、数枚一度に照らされたり。
そして、床に道を形作るようにトン、トン、トンと照明が灯り、部屋の一番奥にある、大きい作品にライトが当たる。
照明で照らされる場所は、一定時間で変わる。


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それぞれの絵は、廃墟の様子がそのまま写し描かれていて、やはりここにも不穏が宿っている。

特に、絵の描写の影の部分には、冨安さんの絵の特徴である、こすったような茶色の塗り込め方がされていて、不安の気配が濃い。
暗い空間に代わる代わる照らされるそれらの絵は、浮かんでは消える心象風景のようにも感じられる。

先程の部屋は、「誰かの記憶のレイヤーにそのままアクセスした」ようだったけれども、この場所は、そこから更に段階が進み、「その"誰か"の認識や思いの、一歩踏み込んだ部分を見ている」ような、そんな気持ちになる。

ところで、どの絵も不安やら不穏やらなんだけど、それでも中に1枚、階段とその先の窓を描いた作品があって、それは清冽な印象でとても明るい。
それが、不安で心許ない日々の中にも、希望や楽しさがあったということを暗示しているようで、なんだか泣きそうになったのだった。

ちなみに、時折「カアー」という烏の声が聞こえた気がして、「ああ外の音が聞こえてるのかしら」と思ったけど、考えてみたら防音扉を開けて入ってきてる訳で、外からの音なんて聞こえるはずがないのだ。絶妙な音響演出でした。

そして、出口に向かう所に、もう一つ大きな絵があった。
絵の下には棚があって、今回の図録が重ねて置いてあったんだけど、絵の中には全く同じ構図で図録が重ねて置かれてあって「わぁぁ」と思ったよ。
最後まで楽しませていただきました。

以前見た冨安さんの個展、「くりかえしみるゆめ」(秀逸であった)は、「誰かの意識下にあるヤバいレイヤーを見る」感じで、「不穏な場で不穏な現象が起こる」という事を体験する場であったように思う。
対して今回は、「誰かの奥底の、本人も知覚していない位の薄らいだ記憶の中にある、ほんの微かな不安の気配を直接見る」ような、人間の深い部分により入り込むような印象を受けたのだったよ。
それが舞台演出の手法を取り入れていたことによって、とても効果的に伝わっていたなぁとつくづく感じた次第。

満たされた気持ちで会場を出て、図録を購入。サイン入りだそうです。嬉しー!
私は絵画作品を買うような素養がないけど作品を楽しむのは好き、ってことで、図録とか画集とか出ないかな!とずっと思ってたので入手出来て大変嬉しい。
ちなみにこちら2300円でしたが、装丁も豪華で内容も充実、本当にこのお値段で良かったんですか?と心配になるような素敵な出来。

そして満足感たっぷりで建物を後にしたのでした。
あああ来て良かったな・・・やっぱり良かったな・・・。