バーバラの午睡

主婦の気晴らしお楽しみ。例えばメイドカフェとか。チョコミントとか。

LOFTのバレンタイン広告の炎上に思う(今更)

今回は全然メイドとかの記事じゃないです。
騒動があったのは2週間程前で、その時に書いたので非常に今更感のある文章なんだけども。
久しぶりに長文を書いたので備忘録的にブログに載せてみる事にしました。考えてみたら、今日はバレンタインデーだしね!

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過日、LOFTのバレンタイン広告で炎上騒ぎがあった。
要約すると、メインビジュアルのイラスト(金髪の女性達が仲良く並んでいるんだけど、裏に回ると髪を引っ張り合ったり服を掴み合ったりしているというもの)、それを元にした動画(友達同士の会話に軽い嫌みやチクリとした言動があって、それに被せて”ズッ友”という文字画像と音声が流れる・・・というもの)が「女性は表面上は仲良くしていても陰湿だというように見える」という理由であるらしい。
私も見たけども。何か居たたまれないような気がして仕方なかった。
しかし、何故自分がそう思ってしまうのかが分からない。
その理由に思いを巡らせつつ、今回の件について考察してみた。以下長文。

 

(ここからいきなり昔話が始まりますがご容赦ください。)
私は現在40代後半である。
小学校の時に「8時だよ全員集合」を毎週身を乗り出すように見ていて、その勢いがやや衰えてきた時に、綺羅星の如く現れたのが「おれたちひょうきん族」と、ビートたけしを中心とした新しい種類の笑いだった。
その後、高校生の時には「夕焼けニャンニャン」が始まって、とんねるずがテレビ番組を席巻する時代に入る。
私達が一番多感な時期に見ていた、ビートたけしとんねるず
彼らの笑いは、勢いとその場のノリありきで、そして何より「自分達が面白いとして発信するものこそが面白い」という性質のものだったように思う。
ひょうきん族の楽屋落ちのネタも、意味が分からなくても笑いを取っていたし、とんねるずの内輪ウケのネタも、これまたよく分からないけども皆笑っていたし私も笑っていた。
そういう「その時代の面白い人が面白いと思ってやってるものを、手を叩いて笑いながら見る」という構図に浸かって、私達は10代を過ごしてきたのである。

 

そしてその頃は、ドラマにしても、ファッションにしても、音楽にしても、流行とは「業界の仕掛け人が仕掛けた事象に着いていく事」そのものであった。
だから、世間離れした超豪華マンションに住むOLとサラリーマンが繰り広げる華々しい恋愛ドラマを「トレンディドラマ」と呼んで誰もがこぞって見ていた。「DCブランドブーム」では原宿やら渋谷やらのブランドと呼ばれるアパレルメーカーの服(高い)を買うのに皆行列して、同じような格好をして街を闊歩していた。そして、「ザ・ベストテン」でランキングされた音楽を、誰しもが口ずさんでいる。そんな時代だった。

 

また、その時代は、広告が文化として栄華を誇っていた頃でもあった。
インターネットなんてまだ概念すらない当時、CMやら新聞やら雑誌やらが媒体としてのほぼ全て。そこで「企業が潤沢な資金を提供して、尖った人が尖ったビジュアルやコピーを作り出して、人々はそれを見てその企業の価値を認める」というのが、当時の”広告”だった。
思えば、我々の世代が若かりし頃、西武やその系列のパルコは時代の先端を行く存在と見なされていて、流行と情報の大きな発信源でもあった。その広告は、非常に「尖った」感性で作られていて、それが当時の人々に驚きや憧れをもたらしていたのだった。

 

ちょっと昔話が長くなったけども、私達はそうやって、「時代を作り出す立場の誰かが作った情報や物にこそ価値があって、それを見上げて、憧れて、着いていって、楽しむのが流行というものだ」という時代を生きてきたのだった。

 

さて。時は流れ、私は現在40代後半になった。
私と同じくらいか、少し上の50代くらいの世代は、バブル期かその後くらいに就職して、勤め続けていれば社内でそれなりの決裁権のあるポジションに着いている方が多いであろうと推測する。
そのポジションとは、広報や宣伝に携わる役職も例外ではないだろう。

 

そんな彼ら彼女らが、予算なり人脈なり、色々と事を動かせる立場になった時、「自分たちは、時代の仕掛け人が流す情報や笑いやトレンドを受けて育ってきた。今度は自分たちが情報を流す番だ」と思ってしまうのは、無理からぬ事ではある。
ましてや、40代50代といえば、LOFTを含む西武系流通各社が、流行の牽引役として「尖った広告を打ち出していた」頃の薫陶を受けまくってきた世代である。思い入れも意気込みもある事だろう。
その世代により、「シニカルで、ちょっとメインストリームから外れた広告を打ち出す事は、今迄のありきたりな広告とは違って、より人々の耳目を集め、店舗の価値を高める」というコンセプトで打ち出されたものが、思惑通りに行かなかった・・・というのが今回のあらましではなかろうか。と想像している。

 

今回の広告でメインビジュアルとなっていた、女子が裏で足を引っ張り合うイラストがある。
これを作成したイラストレーターさんの過去の作品として、「カラフルな服に身を包んだセレブ女子が、にこやかに横一列に並びつつ、裏でつかみ合いをしている」というものがあった。多分、これを原案として今回の広告用のイラストや動画が創られたのだろうと思う。
この、元になった作品自体に対して私は嫌悪感は持たなかったし、むしろ皮肉が効いていて面白いと受け止めた。
しかし、(恐らく)これを元にしてバレンタイン向けとして展開されたものが、何しろ残念。

 

まず最大の問題と思われるのは、(この広告について世間で言われるているように)「イラストと動画を以て”女子の仲良さは上辺だけ、陰では陰湿”というメッセージを打ち出してしまった」事である。
「女子ってこういうところあるよね」という、あるあるネタとして共感を得たかったのだろうか。
でも、バレンタインって基本、チョコを贈る行事であって、贈り物っていうのは、人に渡して喜んでもらおうとする為の物ですよね。それを、購買層である、主に女性のお客様に買ってもらう為の広告ですよね?
そこに、「女子って上辺では仲良くしてるけど陰湿な所あるよね」というネガティブな情報を添付して、何の宣伝広告になると思ったんだろう?
ましてや、友チョコと称して、女子がチョコを贈り合うというのがバレンタインの一大勢力となっている昨今。「女子って陰湿だよね!」というメッセージを打ち出した店で買ったチョコを友達に贈ることは、そういったネガティブなメッセージをも相手に伝える、すなわち友情に水を差すという意味になるのではないかといことに、考えが至らなかったのだろうか。
贈答品を扱う、デパートの系列企業とは思えない鈍感さである。

 

そして、「そもそもこの広告の表現自体が、時代の求めに合致していないのではないか」という問題がある。
なによりまず、「バレンタインに女子が争う」という設定自体が、昭和の発想である。
近年は、携帯電話→メール→LINEへと、コミュニケーションの手段が変化・発達し、以前のような「バレンタインは、お目当ての彼にチョコを渡して告白する日」というイベント性は大分無くなってきている。
女性から男性にチョコを贈る場合であっても、勿論告白というのもあるにはあるだろうけれども、それよりも、既に付き合っているカップルとか、会社やら学校やらサークルやらの親睦的な意味合いで・・・という使われ方の方が、数としては圧倒的に多いのではなかろうか。
そして、新しいパターンとして、女子同士が贈り合う友チョコというのが昨今大流行しているという。確かに、チョコレートが好きな多くの女子が、自分たちでおいしい物をシェアして楽しもう!というなるのは自然な流れだろう。我が家の娘達はバレンタインに大量のチョコを用意するが、全て友チョコである。娘の友人達もまた然り。
バレンタインデーの意味合いをどこまでも拡大したのが昨今のチョコレート業界のマーケティングで、それはすっかり定着していると言えるだろう。つまり、昨今のバレンタインとは、チョコレートを核とした、半ばお祭り騒ぎのような行事である。

 

そういった現状で、このような「バレンタインに向けて女子同士が足を引っ張り合う」というような表現を持ち出して、女子あるあるでしょ?皮肉効いてるでしょ、面白いでしょ?と思わせようという感覚。ここが既に大分”違う”。
更に、動画に使われていた「ズッ友」という言葉、これが致命的である。何年前に流行った言葉だよ・・・うちの高校生の娘が小学生の時に言ってたけども・・・今誰も使わないよ・・・。

 

「贈答品にふさわしくない表現を用いて」「目指した表現が現状の人々の行動や心理とずれていて」「言語感覚も時代からずれている」。
そしてその集大成を、(おそらくは)「ちょっとウィットの効いた広告」として打ち出してしまうその感覚。
消費者とは完全にすれ違っている目線。そのズレっぷりは、見ていて辛い。
(このズレの向こうに、「自分の持論を得意げに語る上司」「それを持ち上げる部下」「忖度してそれに合わせた物を作る下請け」の構図が透けて見えるようで、うそ寒いのである。想像ですけど。)

 

そして、「広告を打ち出す側と受ける側のズレ」が、もう一つあると私は思う。
今回のバレンタインの広告宣伝は、非常に野心的と言っていいだろう。よくある「トキメキバレンタイン」的な、可愛い!とかステキ!という事を前面に出すような方向ではなく、ちょっとひねった所を狙って、人の目を惹こうというやり方。
そういった方向性で広告を打ち出す側には、やはり「他とはちょっと違う物を見せてやろう」という、気概のようなものがあると思うし、同時に「自分たちは他とは違った事を仕掛ける」という自負心もあるように思う。
今回は、その「仕掛けよう」という意気が強すぎて、広告を受ける側がどのような感情を持つかについてが、二の次にされていたのではないか。
そのような、送り手側の意図>受け手側への配慮 というバランスで考えられたコンテンツが消費者に与える印象。それは「上から目線」「押しつけがましい」という事になってしまうのではなかろうか。

 

平成も末の今の時代は、完全に、昔のような「仕掛ける側の思惑」が通用しない時代である。
我々が10代、20代の頃は、「媒体を持っている」というのがものすごい価値を有していた。自分の言いたいことをメディアに乗せる手段を持っているということ、それが勝ち組であった。
しかし、スマホがこれだけ普及した昨今、媒体は(ほぼ)全国民の手の中にある。人はマスメディアに頼らなくても、自分の力で発信が出来るようになった。自分が言いたいことも、伝えたいことも、瞬時に世界に発信することが出来る。
そして更には、誰かが発信した情報も無尽蔵に受け取ることが出来る。
ニュースにしても、ファッションのトレンドにしても、音楽のトレンドにしても、InstagramTwitterYoutubeという各種SNSに無限にチャンネルがあって、その中で、皆「面白そうなもの」をそれぞれに見つけて楽しみ、それを個人個人が再度発信して、それが広がって伝わって「バズって」行く。私達の時代には考えられない流行の伝播の過程。

 

溢れる情報の滝に打たれ、情報の選別のプロセスをこなしてきた今の世代は、「情報を受ける事のプロ」である。
往時の私達は上流から来るものをただ口を開けて受け取っていたが、今の世代は怒濤のように流れてくる情報が自分の感性に合うか見極めるスキルが、ものすごく高い。
我々世代は、トップダウンで情報や流行が来る事に何の疑問も持っていなかったし、その「トップ」が「上」であるのは当然だと思っていた。
しかし今は違う。情報は消費者により選別されて、受け容れる価値があると思えばそれが受け容れられる。
そんな昨今、情報を流す側が送り手側の思惑だけで情報を流しても、人は無条件で喰い付いてはくれない。それが人々の感性に合わなければ受け容れられず、「バズらない」。「誰かが面白いと言おうと、自分が面白く無いと思ったら、それは面白くない」のである。
そして、消費者は、自分たちが情報を選択する側であり、消費行動の主体である事を分かっている。
その為、情報を流す側が「上」、受ける側が「下」であるという感覚は、既に大分薄れてきているのではないか。
故に、情報の受け手、消費者側は「上から目線の情報提示」を好まないのでは無いかと思う。
すなわち、情報を流す側の意識に、消費者に対するリスペクトが感じられないと、近年「消費者様」として配慮され、丁寧な扱いを受けてきた人々は、その点をものすごく敏感に察知する。そしてある意味ではバズる。炎上ともいうけど。

 

翻って私達の世代。「誰かが仕掛ける物に着いていっていた」世代。
こういう世代が、他にはない個性のある、攻めた物を作ろう!と方向性を主導して、「うちは他と違うよ!攻めてるよ!」と広告を打つ。
それが、「情報を受けるプロ」達に、「消費者感情に対する鈍感さ」「表現のずれ」と共に、その背景としてある「上から目線の姿勢」も感じ取られて、結果スベって晒し上げられた・・・ということが、この件の顛末ではなかろうか。

 

そして更に思う事がある。
LOFTと同系列の、そごう・西武が1月に出した新聞広告。
女性の顔にパイが投げられている写真と、添えられた「女の時代」から始まるコピーが物議を醸した。
(尚、そのコピーの言わんとする内容はここでは論じない。というか正直何が言いたいのかよく分からなかったよ・・・)
私は、この写真にも、この長々したコピーにも、私は強烈な「仕掛けてやろうという意気込み」「自負心」を感じた。
パイが顔に投げられたセンセーショナルな女性の写真と、「わたし」「わたしたち」という主語で滔々と「女性」と「時代」を語るコピーから伝わる主張の強さ。
その語り口からは、「自分たちが価値観を提示する(+それに消費者も共感するだろう)」という意図が強く感じられる。すなわちこれも、伝え方が見事に「上から」「トップダウン」的で、”昭和な印象”が非常に強いのである。
そこからは、西武の広告が人々の心をかき立て、憧憬を持って受け容れられてた時代に立ち返りたいという、内なる思いが透けているようにすら見える。穿ち過ぎだろうか。

 

バレンタインの広告、パイ投げ広告。いずれも、そこから私が受ける印象は「自分の言いたい事だけを言っているなぁ」ということだった。
「女子って陰湿だよね」という、購買層の心を逆なでする表現。「私たちの時代」という独りよがりな文脈。どちらも主役は広告のメッセージを打ち出す側で、受け手たる消費者は完全に脇役扱いである。
これだけ多くの人々がのびのびと自分というものを発信をしている中、こういう形で企業が自分たちの思う事を押し出して来られても、人は着いて行かないし、憧れもしないのではなかろうか。突っ込む位はしてくれるかも知れないけど。

 

「このような攻めた広告は、デパートによる発信であり、宣伝広告による問題提起である」という向きもあるかも知れない。
しかし、こう言っては身も蓋もないかもしれないけれども、デパートが人々の憧れを集め、文化の発信役や時代の牽引役を担っていたのは、もう大分昔の話である。情報発信のチャンネルが無数にある今となっては、デパートにそういった役割は今や期待されてはいない。
そういった、人々の先に立って何かを発信したり、提言したりするようなポジションは、既にデパートのものではない(・・・というよりむしろ、企業が先導するというやり方自体が時代と馴染まない)ということを、当事者が察知出来ていないようである点が、大変残念な事だと思うのである。
端的に言うと「もう、今の時代の主役は君らじゃないっての。君らに先に立って走って欲しいなんて、皆思ってないのよ。」という事だ。
(それよりもどっちかつうと、皆が走ってる方向を見定めて、そこに給水に来て欲しいんじゃないのかね。世の皆さんは。)

 

それでも、時代の先の先を先取りして、さすがスゲーや自分らの求めてた物はこれだったんだ、皆踊ろうぜ!となる位の、目線がどうか思惑がどうかなんて細かい事を蹴散らすような、パワーとか勢いのあるコンテンツを出してもらえれば、また別なんだろうけども。
残念ながら提示されるのが今回の広告程度のものではなぁ。今の時代の「情報を受けるプロ」の心は、この程度では揺さぶられないし掴まれないだろう。

 

さて。2/4に、件のバレンタイン広告は取り下げられた。攻めている広告のつもりだったのだろうに、怒られるとろくな言い訳もせず「すいませんでした」位のテンションで取り下げてしまうのね・・・。
皮肉を含む表現はそれなりの覚悟と共に成されるべきだし、明確なコンセプトがあればそれをきちんと説明して継続すれば良いのに。(それが出来ないなら最初からやらなければいいのに)

 

余談だが。攻めている広告と言えば、宝島社が新聞に時々全面広告を打つ。これが、樹木希林さんとか、マッカーサーとか、西郷隆盛像とかがメインビジュアル。これまた、「俺の話を聞け」的な非常に主張の強い物であるし、賛否両論ある。
それでも、宝島社の「我が道を行く」というようなスタンスが感じられるそれは、賛も否も全て受け止めるような気迫がある。そこからは、何か覚悟のような物が伝わって来て、上からでも下からでもなく、直球で訴える力があるように思う。(そして、その気迫がLOFTと西武の広告には感じられない)

 

そしてこれまた余談だけど、バレンタインにしてもパイ投げにしても、私は今回それなりのポジションにいる年齢層の人間が主導した事であると仮定して論じたけども、万が一これが「若手の広報担当とクリエイターが良いと思って作り上げた」ものであるなら、それはその方が病巣はより深いと思う。
百貨店(及びそれに準ずる規模のライフスタイル提案型の店舗)という存在は、人々の一歩なり半歩なり先を見て、生活を潤すような物や事柄を提示していくというのがその大きな役割であると思う。それが、今回の広告の件で「こいつらは時代を読み損ねている」事が図らずも露呈してしまって、同時に「人々の求める物を把握する力が無い」ことも同時に明らかになってしまった。
それが、「中年が勘違いしちゃったんだ、仕方ないね。」という事なら、社内の人的なブラッシュアップで済むのかもしれないけど、若手までこの有様っていうんなら相当ヤバい。これが社風って事?染まるって恐ろしい話だわ。もう戻れないのかしら?となる話。

 

何事もそうだけど、全体の印象というのは、細かなディテールが積み重なって形成されていく。
大小の違和感によって成された、西武系流通各社=セゾングループの「ずれている」という印象。そこに、かつてのセゾングループにあった、キラキラしていて、その名前自体が光を持っているようなイメージは見る影もない。
すごく卑近な例としては、かつて西武のロゴマークの包装には特別感があって、それに包まれている物はそれだけで心がときめくものだったけど、あまりそうは思えないようになってたとかね。(個人的にはむしろ三越とか高島屋の方がありがたみがある。)
過ぎし日の、西武とセゾングループという存在が、文化の旗印としてきらめいていた日々を頃を知る者としては、こんな今の状況を見ていると、なんだか切ないような気持ちになるのであった。

 

以上、LOFTと西武の宣伝広告について私が述べてきた、「今回の件はきっと中年の仕業だ」というのは、勿論仮定であり勝手な想像である。ただ、この事態は私の世代にあまりにも心当たりのある様相を示しているように思えてしまった。
「もしかしたら、私自身も同じ立場にいたら同じ事をやってしまうかもしれない」。これが私の感じた「居たたまれなさ」の根源であったようだ。
私はお気楽な主婦業だから、そんな大きな事を動かすという事は無いけれども、それでも自分の年齢を笠に着てやりやすい方向に流れてしまう事は、場面は違えどあり得る話である。
いやもう本当にこれぞ他山の石。年齢に寄っかからないようにしないとな。と思った次第。